寺島柾史

 寺島柾史(てらしままさし)本名は寺島政司と書く。根室を代表する作家で、昭和4年から昭和26年(1951)頃までに出版された単行本は60冊以上はあるといわれている。特に科学史話、歴史小説、冒険探検小説が多く、その他に「講談倶楽部」「日本少年」「富士」「探偵クラブ」「文藝新風」といった雑誌の連載も数多く寄稿している。また、白木陸郎、歌古川文鳥、白木原史樓、北聯城、寺島征史、寺島荘二、寺島朽秋など複数のペンネームを使っていたため、未だ確認できない作品や活動の詳細が明らかにされていないことも事実だ。

 柾史は、宮大工の次男として、明治26年10月24日(1893)北海道根室町松ヶ枝町で生まれる。花咲尋常小学校時代から文集制作や詩作を始める。花咲尋常高等学校時代に「文章世界」「秀才文壇」(博文館)などに投稿している。また、卒業の年には釧路新聞社に勤める石川啄木を訪ねたそうだ。その時の話をロマンス第3巻11號、昭和23年11月(1948)実話小説「悲しき蕩兒─釧路の石川啄木─」に掲載している。

 

 明治44年(1911)に上京。工手学校に通いながら文学の勉強に励む。柾史はこの頃、建築家を目指すべきか、文学を選ぶべきかで悩んでいた。岸本伝吉(柾史)を主人公にした自伝風小説「希望の斧」北海道文学第6〜18號、昭和38〜40年(1963〜65)の中で揺れ動く気持ちをリアルに描いている。

 大正時代、文学の道を選んだ柾史は、小樽や旭川で新聞記者をしながら文学を学んだ。この時代、柾史はいくつかの作品を新聞連載している。小樽新聞「幻の黒船」、旭川新聞「開拓使時代」(200回連載)をはじめ、日本新聞には「荒野の道」(150回連載)、北海日日新聞には「身売夫婦」などが連載されたようだ。

 

 大正11年(1922)に星みつと結婚し二男二女をもうけた。大正14年(1925)柾史32歳の時に文学のために再び上京。平沼騏一郎元首相の國本社に籍を置き、約十年間「國本」(雑誌及び新聞)の編集・執筆をする。白木陸郎、歌古川文鳥、白木原史樓などのペンネームを使い分けたのもこの時代で、一冊の雑誌に三つの作品を掲載することもあった。國本社時代に培われた思想や人脈が、後の柾史の執筆活動に大きな影響を与えていると考えられる。

 

 昭和2年(1927)頃「鹿鳴館時代」を日本新聞に連載し、昭和4年(1929)に初の単行本として萬里閣書房から発行される。昭和6年(1931)に東京吉祥寺に移転。作家活動も軌道に乗り多忙を極めた。昭和9年(1934)練馬へ居を構え、さらに充実した日々は戦時中まで続いたという。

 当時の時代背景が影響してか、時代の要請だったのか、この頃の柾史は科学史や日本の科学者、発明家の偉業を称えた作品が多い。史話會を主宰し、自らを日本民俗科学研究所長と称し、連日のように上野の図書館に通い歴史・科学の研究に明け暮れた。また、根室(北海道)をこよなく愛した柾史は、北方千島、北海道を舞台にした作品が多く、昭和4年(1929)、昭和8年(1933)、昭和12年(1937)占守島・幌筵島・阿頼度島を訪れるなど、数回にわたり千島列島の取材調査へでかけている。

 

 昭和16年2月15日(1941)妻みつ病気で他界。柾史が主宰する史話會の追悼号「故寺島みつ子夫人」に故人を偲ぶ大勢の友人知人からの寄稿文が掲載された。柾史にとって、國本社を独立した昭和10年頃から戦前にかけてが、最も多忙な時代だったようだ。

 

 昭和20年5月(1945)雨竜郡納内に疎開(柾史52歳)。同月中旬、東京空襲で練馬の家が焼失し、再び東京へ住むことはなかった。終戦後、風蓮湖畔の別海町奥行臼にあった友人の経営する大沢農場の人となった柾史は、未開の地で村塾を企て日本文化学院(仮称)を創立し、総合芸術研究の殿堂を築こうとしたが、その夢は失敗に終わった。その頃を描いた作品に「湖畔の随想」「夢想家の敗北」「蒼い鶴」「貧者の幸福」「田園憂愁記」などがある。

 戦後の北海道は紙の生産地であり、空襲を免れ印刷能力もあったため出版ラッシュが続いた。疎開作家となった柾史は、「北方風物」「青年論壇」「北の子供」「海域」「國境」「文藝新風」など、地元の出版社への掲載のほか、「ロマンス」「富士」「實話と小説」「実話講談の泉」など中央の雑誌にも精力的な執筆活動を再開する。

 

 昭和26年6月30日(1951)には、昭和19年(1944)に引き受けた大作「根室郷土史」が岩崎書店より発行。同年、中里介山の知遇を得た柾史は採光社版「大菩薩峠」の編集責任者となり、打ち合わせのために上京中採光社(東京)で倒れる。その後、室蘭に住む長男順一郎宅で療養したが、昭和27年4月25日(1952)心臓喘息と高血圧のため59歳の生涯を終える。

根室出身の作家 寺島 柾史


■ 一 作品

 根室出身の作家寺島柾史(てらしままさし)さんは、大正時代の中ごろから昭和二十六年までの間にたくさんの作品を書きました。小説、科学発見物語、伝記、随筆(ずいひつ)、童話、児童向けの冒険(ぼうけん)小説などです。少し昔なので、親しみがないかもしれません。昭和二十年の空襲(くうしゅう)で焼けたせいもあるでしょうが作品は少ししか残っていません。児童向けの本に『海底の魔城(まじょう)』、『海賊船(かいぞくせん)』などがあります。
ここでは寺島さんの逸話を中心にお話します。


■ ニ お父さん

今(二〇〇〇)から一〇七年前の明治二十六年(一八九三)十月二十四日、柾史さんは寺島喜之助(きのすけ)さん、イトさんの次男として根室の松ヶ枝町で生れました。「政司(まさし)」という名前ですが、小説を書く時「柾史」というペンネームを多く使いましたので、ここでは「柾史」にします。
お父さんは大工(建築屋)さんでした。富山県の出身で、東京で天皇家の仕事をする宮中御用大工に弟子(でし)入りして腕のいい大工さんになっていました。ある時、知人に頼まれて根室に家を建てに来ました。見事な出来ばえに次々と注文がきて、すぐ東京へ帰るつもりが帰れなくなり、根室に住むことになりました。
 柾史さんは、清司兄さん、弟の治作さん、妹のキミさんの四人兄弟でしたが妹さんは早くに亡くなりました。柾史さんは内気でおとなしい子どもだったそうです。


■ 三 明治二十六年

 寺島柾史さんの生まれた明治二十六年の根室は、約千五百軒の家があり、約一万人の人が住むにぎやかな町でした。「常盤座(ときわざ)」という劇場は弥生町に新しく建てかえられ、さらに花咲町に「根室座」ができました。テレビのない時代です。劇場はいつも人がいっぱいでした。
 また、前年から千島の調査や探索が続き、この年は郡司大尉のひきいる報效議会(ほうこうぎかい)の人々が千島へ向かいました。多羅尾忠郎(たらおただお)や笹森儀助(ささもりぎすけ)という人の千島探索の本が出版された年でもありました。柾史さんがおとなになって千島へ何度も調べに行ったり、『郡司大尉(ぐんじたいい)』という本や千島を題材に作品を書いているのも何か関係がありそうな気がします。


■ 四 水野先生

 柾史さんの花咲小学校時代に水野文雄という先生が担任だった事がありました。水野先生は、歴史物語を教えてくれたり、勉強のあいまには、自作のおとぎ話を聞かせてくれました。柾史さんの同級生の飯田廣太郎(いいだひろたろう)さんは、後に次のように書いています。(短くまとめました)
 「話がもりあがると目に涙をためて、口からつばを飛び散らす。そのしぶきが、教卓のすぐ前に座っている私の顔に、とびかかってくる。」
 楠正成の話では、「口につばの泡をため、目をうるませる…私のまぶたもいつか熱くなってくる…その途中パッとふりかかる熱いしぶき、私はそれをぬぐうでもなく胸をおどらせて聞いている。しかし私は何の不平もなかった。…私はその先生に受け持たれたということは、小学校時代の幸福の一つであった」
 クラスのみんなは夢中になって話を聞き、誌や作文が好き になってクラス雑誌を作って回し読みしたそうです。柾史さん、飯田廣太郎さん、村田丈作(ぶんさく)さん、前田修さん達は『秀才文壇(しゅうさいぶんだん)』、『文章世界』という雑誌に投稿(とうこう)し、よく載(の)ったそうです。水野先生のお母さんの梶原貞(かじわらてい)(水野貞)さんも先生で、花咲小学校で、柾史さん達は習ったそうです。水野というの姓は、お母さんの姓を継いだのです。


■ 五 友だち

 柾史さんは、途中で転校してきた青山義雄(よしお)さん、高等科へ入ってから大澤常治(おおさわつねじ)さん、後には上級生だった岡伊助(いすけ)さんとも仲良しでした。さきに書いた劇場「常盤座」は、飯田廣太郎さんのおじいさんの経営です。おばあさんは、アイヌ絵で有名な平沢屏山(ひらさわびょうざん)の娘さんでした。廣太郎少年は後に国語教育で有名になり、札幌の大きな学校の校長を勤めました。村田丈作さんは、釧路で野中賢三(けんぞう)さん達と文学にうちこみ、後に紋別で印刷屋さんを始め新聞などを発行しました。前田修さんは岳人(がくじん)のペンネームで漢詩も書きましたが、金刀比羅神社の神主だったお父さんの前田鴻(こう)さん(漢詩人)の後を継いで神主になりました。青山義雄さんはフランスへ行き、画家マチスに絵を習い、有名な画家になりました。平成八年(一九九六)百二歳で亡くなりました。大澤常治さんは牧場や千島の漁業を経営しました。柾史さんの東京の家が空襲(くうしゅう)で焼けた時は、大澤さんの牧場(別海の奥行臼(おくゆきうす))でしばらく一緒(いっしょ)に住みました。岡伊助さんはみそ作りやお酒の店を手広くやり根室町議員もやりました。


六 石川啄木(たくぼく)を訪ねる

 文学好きだった柾史さんは、『明星(みょうじょう)』という文芸雑誌の石川啄木(詩人)の作品にあこがれており、手紙を書いて返事をもらったりしました。啄木が釧路新聞社の記者になると釧路へ訪ねて行きました。明治四十一年の春のことです。おそらく柾史さんが花咲小学校の高等科卒業前後ごろだと思います。まだ鉄道がなくて根室から釧路までは舟で行き、一晩泊まって戻りました。その時の話を柾史さんは『湖畔(こはん)の随想(ずいそう)』という本の中に書いています。しかしこの事は石川啄木日記に出てこないので、知らない人が多いのです。寺島柾史さんの最後の仕事となったのは梁取光義(やなとりみつよし)さん(作家)と共に編集した中里介山(なかざとかいざん)の『大菩薩峠(だいぼさつとうげ)』でした。梁取さんは後に『石川啄木』という本を書いていますが、中に寺島少年が啄木に会った話が入っています。梁取さんは啄木のことを調べるのに啄木と同じに釧路や小樽で新聞記者を経験しながら関係者に会って調査をした人でした。


■ 七 文学志望

 お父さんの建築屋さんが忙(いそが)しいので、柾史さんは花咲小学校の高等科を卒業するとお兄さんのように仕事を手伝いました。そしてもっと勉強するために東京へ行き、おじさんの所から工手学校(建築の学校)へ通いました。でも文学をやりたくて、文学好きな人の集りに出かけたりしました。
 やがて清司兄さんはお父さんの仕事を継ぎ、根室で最も古い建築屋さんの寺島木材建設の社 長さん、弟の治作さんは、お兄さんを助けて弟子屈(てしかが)の川湯で木工所をやりました。屋号は「┐」の中央に「き」で(かねき)です。「┐」は建設の時に使う曲尺(かねじゃく)というものさし、「き」はお父さんの喜之助(きのすけ)のきです。
 柾史さんは、好きな文学の道へ進むために大工さんの手伝いをやめてしまいました。そして、文学の勉強にと旭川や小樽で新聞記者をやりました。のちにいろいろな新聞に小説を発表します。大正時代の末ごろもっと勉強のためにと東京へ出ました。『国本(こくほん)』という雑誌の編集をしながら小説をたくさん書きました。昭和二年ごろ「日本新聞」に『鹿鳴館(ろくめいかん)時代』という小説を連載します。この小説は昭和四年に一冊の本として出され、柾史さんは初めての本でとっても喜んだそうです。雑誌にも作品を発表しましたが、文学関係を書くことは次第に少なくなり、ある時から東京上野の図書館通いを始めました。


■ 八 科学史の勉強

 昭和時代の始めごろ(約七〇年ぐらい前)柾史さんが医学、工学、文学関係者の集りに出かけたとき、有名な医学者が「日本には科学がない」という意味のことを言ったそうです。「この人は立派な科学者なのに妙(みょう)なことを言う、おかしい、そんなはずない」と思ったのがきっかけで、柾史さんは図書館に通って自然科学史の勉強を始めました。「それは十二年も続きました」と、ある講演で話しています。仲良しの青山義雄さんは、フランスから帰ると「文学をやらないで だらくだ!」と言ったそうです。それほど科学史に夢中だったのですね。それで科学関係の本もたくさん書きました。
 ある時、家に急用のお客さんが尋(たず)ねてきました。奥さんは、急ぐ時に図書館に電話をしても取り次いでもらえないので電報を打ちました。図書館の人はびっくりして呼び出してくれたという話が残っていたそうです。


■ 九 着物が好き

 柾史さんはいつも着物を着ていました。同級の大澤常治さん、青山義雄さんが集まると、子どもに戻ったように楽しく話をしていたそうですが、昭和十五年ごろ、柾史さんは二人から「もう着物で外を歩く時代ではないぞ。服のほうが便利。」と説教され、むりやり仕立屋さんに連れて行かれ、寸法をとって服を作ることになったそうです。洋服を着始めた頃は、窮屈(きゅうくつ)そうにしていたと長男の順一郎さんのお話です。

 この豆本は寺島柾史さんの逸話(いつわ)を中心に書きました。作品については、またの機会にお話しします。
話をして下さった方
 寺島順一郎氏(寺島柾史長男)  札幌市在住
 有路 美奈氏(寺島柾史次女)  浦和市在住
カットを描いてくださった方
 有路さつき氏(寺島柾史孫)   浦和市在住